目の前に鎮座している黒い物体に唸る。

やっぱりこれくらい…いや、でも…

ため息をひとつ漏らす。何時間ここにいようと何かが変わるわけではない。

腕時計を確認すると約束の時間が近づいていたのに気づいた。

名残惜しいが行かなくてはならない。最後に一度見てその場を離れた。










放射熱










大通りから一本脇道に入った通りにあるこじんまりとした喫茶店。

アンティーク物で飾られた店内は電気色のオレンジの薄い光源で灯りを取り、落ち着いた空気を持ったものになっている。

水が入ったグラスを乗せたトレーを片手に持ち、白いワイシャツに黒いズボンとミドルエプロンといったシンプルな制服を着た店員…オレは口元を引きつらせた。

赤いフレームの眼鏡を掛けハット帽を被り変装した黄瀬涼太がにっこりと笑いこちらをみていたからだ。





「どうも。」

「…いらっしゃいませ」

「ここで働いてるって聞いたんだけど本当だったんだ。」

「ご注文はお決まりですか。」

「休みの日も仕事なんて大変だね。」

「本日は苺のシフォンケーキがお勧めです。」

「オレあれからさんのこと気になって。もっとお話ししたいから連絡先教えてくれない?」

「……客じゃないなら帰れ」

「カフェオレください」





会話が繋がらない。ニコニコと笑続けているこいつは人をイラつかせる天才じゃないのか。

追い返し塩を撒きたい。しかしキッチンカウンターからこちらを見るオーナーの目が接客しろと言っていた。

趣味で経営している喫茶店なら客の一人くらいいなくなってもいいだろ…!

口に出したい文句を奥歯を噛み殺しながら、「かしこまりました」と言葉を腹の底から捩じりだした。





スタジオで初めて会話したあと、撮影中は接触をしないよう避けていた。撮影後も何もなかった。

それでどこが気になったのか。謎だが今はあのニコニコ顔を一秒でも見ていたくない。

飲んだら帰れ。いや、飲まなくても帰れと念を込めてカフェオレを淹れてやる。

湯気が立つ温かいカフェオレを客席に持っていく。





「仕事終わるの何時?」

「ごゆっくりどうぞ。」





何を言われても無視をすることを決めカップを置いて早々に立ち去った。

そのまま別の接客に入りキッチンに下がり、力の限り接触を拒む意思を見せた。




















「新名さん、個人情報流すのやめてください。」

「あら、くん。挨拶もなしにいきなりそれ?

現場の先輩よ、私。」





スタジオの一角、オレにはわからない化粧小道具をバッグに詰めならが新名さんは言う。

先に人としてのマナーを守らなかったのはどっちだよ、心中で呟きつつおはようございますと社会のマナーを済ませる。





「個人情報って、どの時の話?」

「わからないくらい心当たり作るのもやめてください…

黄瀬涼太にオレのこと教えたの新名さんでしょ。あそこで働いてること知ってるの、新名さんくらいしかいないし。」

「だって〜折角将来性のあるイケメンとお近づきになれそうだったんだもん。

多少の犠牲は必要よね?」





顔を傾けて可愛らしく語尾のトーンを上げる。音符でも見えそうだ。

そして支払う犠牲はオレなのかよ。いくら可愛らしく言おうがやった内容は変わらない。





「とにかく、今後黄瀬涼太が何か言ってきても何も教えないでください。」

「はいはーい。」





彼女の「何が何でも自分の目的を達成する」という意気込みは尊敬する部分もあるが、そのために後輩を出汁にするのはいかがかと思う。

そのため、いつ自分が被害に遭うかと心配して人が寄ろうとしない。これでも面倒見が良かったりといい所もあるのに、勿体ない。

立ち上がりヒラヒラと手を振りながら別室に行く姿に少々不安を抱くが、この件はとりあえず終わりだろう。

ふぅ、とため息をついた。




















「黄瀬くんお疲れ気味?お肌荒れてるよ。」

「あー…部活の練習キツイからかなー…」

「あぁ、噂になっているわね。最近バスケ部に入部したんだっけ?

モデルなんだからちゃんとお肌には気をつけなきゃだめよ。まぁ私の腕ならカバーできるから安心して。」

「よろしくおねがいします。」





軽く笑い、ファンデーションを塗られるのを見ながらため息をついた。

ずっと自分が欲しかった人間を学校で見つけ、彼が所属していたバスケ部に入部したが中々に練習がつらい。

周りについていけていないということではない。今いる新人の中では群を抜いて力があるため、共に練習していても手応えがないのがつらいのだ。

すぐにレギュラーにしてくれてもいいのに。早く一軍になりたい身としては下積みの部活動はストレスが溜まる日々だった。





さんも釣れないしなぁ…」

「みたいねー。くんは人付き合いもあんまりよくないし、相手にしてもらうのは難しいわよ。

私もようやく手からご飯食べてもらった感じだもの。」





懐かない野良猫か。確かにアーモンド型の目つきはネコ科だ、と黄瀬は納得した。

あれからが働いている喫茶店にも何度か行き仲良くなろうと声をかけてみたが、マニュアル通りの挨拶が返ってくるかひどい時は無視だ。

気になる相手ではあるけれど学校に部活にモデルの仕事と何足もの草鞋を履いている上に、そっぽを向いた猫を手懐けるのはキツイものがあった。





「元々追いかけるのってオレの柄じゃないし、望みも薄いし。もうやめようかな…」

「鳴らない鐘は打たないタイプね。

そんなお疲れ気味の黄瀬くんにいいもの見せてあげようか。」





ゴソゴソとバッグの中を漁りだす新名を黄瀬は鏡台ごしに見る。携帯を取り出して自慢の可愛いペットの写真でも見せる気だろうか。黄瀬はそう予想を立てた。

こういう場合によくあるパターンで、元気がない普通の相手には定石な手段だろうが、自分は他人のペットにあまり興味がないのでその癒し効果も期待ができそうにない。

しかし新名が取り出したのは一枚の写真。黄瀬にちらりと見えた表面は白黒だったのでモノクロ写真だ。

モデルの撮影はモノクロの機材による撮影もあるため、モノクロ写真自体は業界では特段珍しいものではない。

しかし黄瀬にとっては見慣れないものだったので、珍しく思いよくみようと身体を捻りふりかえった。

一人の男性モデルが片足を崩して立ち、こちらを見つめているだけのシンプルすぎる写真だった。

モデルの慣らしか機材チェックか。撮影用途がどちらにしても本番では到底使えるような代物ではなかった。

この写真のどこがいいものなのか。有名なモデルが被写体のレア物というわけでもなさそうだ。

ふ、と黄瀬は被写体の瞳に目が行く。ギラギラと輝き飢えた猛獣のような目。

目が合うと黄瀬には被写体の胸の内が見えたように彼の野心に満ちた思いが伝わった。

ぞくり、と背筋に何かが這い上がるような感覚がする。何気なく撮っただろう写真にこんなにも被写体の内心を暴かれるなんて。





「それね、くんが撮った写真なの。

モデルさんもまだ新人の域の子だったんだけど、なんだか引き込まれそうでしょ?

すごいなー。こっちも見る人を引き込むような作品作りたいなーって頑張る気にさせられるから、いいもの。」





この人の写真では自分はどのように写るのだろうか。撮られてみたい。

自分が敵わない相手に出会った時のような熱い思いがこみ上げ、黄瀬を高揚させた。





「ねえ新名さん、この写真オレにちょうだい!

あとオレもっとっちと仲良くなりたいんだけど!」

「じゃあ貸し追加よ。今度は反故しようとしないでね。」

「え、あっ…」





以前も今と同じようなやりとりをしたことを思い出す。

その時は適当にあしらい、約束をなかったことにしようと企んでいた。冷や汗が流れる。

あの時と同じく新名は可愛らしく首を傾け笑った。





「ちゃあんと返してもらうからね。」