雨が傷だらけで山にやってきたのは、花さんが来てから数日経った別の日だった。










04










頬に白い布が当てられ、身体からは鼻に付く臭いがする。

傷に薬を塗ったんだろう。僕が怪我をした時もじいちゃんが、同じような臭いをした葉を傷口に当ててくれたのを思い出す。

大丈夫?と、臭いを我慢して鼻を雨の顔に摺り寄せた。

雨は暫く黙ったままだった。じいちゃんも何も言わない。

僕だけが雨大丈夫?痛い?と声を出して聞いていた。

やがて雨がぽつりぽつりと呟く。





「雪はなんでおおかみじゃないって言うんだろう。」

「ゆき……?」

「僕たちはおおかみこどもなのに。人間じゃなくて、おおかみなのに。」





雪、というのは雨のお姉ちゃんだろうか。以前、雨から「おおかみこどもの姉」がいると聞いたことがあったのを思い出す。

俯いたままの雨に心配をしてきゅーん…と細い鳴き声を上げる。

ようやく雨が僕の方を向き「ごめんね、。心配かけたね」と、頭をくしゃりと撫でてくれた。

じいちゃんは何も言わず山に向っていってしまった。雨はそれを追わなかった。

木の根元に腰を下ろす。胸に溜まったものを吐き出すように雨は話してくれた。





昨日の夜、雨はお姉ちゃんの雪と喧嘩をしたらしい。

自分たちが人間かおおかみか。どちらの存在なのかと。

雨は自分をおおかみだと言った。雪は自分は人間だと言った。もう二度とおおかみにならないとも言った。

そして雨にも人間として生きるよう、人間らしく学校に行くように強く言った。

雨は学校なんかいかないと断わった。山のほうが楽しいし、おおかみの自分にはそちらの方が勉強になると。

雪は頑として言う事を聞かない雨に手を挙げた。それでも雨は言う事を聞こうとせず、テーブルをひっくり返し拒絶した。

二人は互いに互いの意見を受け入れようとしなかった。そこから言葉ではなく力のぶつけ合いになった。

牙をむき爪を立て相手をねじ伏せようとする。唸り声が低く響き、毛は体を一回り大きく見せる様逆立った。

騒ぎを聞きつけた花さんの声は聞こえていたが届かなかった。

静止する声を無視し雨は走る雪を追いかけた。途中から逃げるように走っていたのも気付いていたが見ないことにした。

ただ自分の力を誇示するように雪を追い立て、彼女の喉元に牙を向けた。

互いから血が出た。血の鉄臭い匂いが鼻を刺した。

雪は悲鳴にも似た鳴き声を上げながら屋内を逃げ、勢い余って薪の山にぶつかる。惨めに思うほどの姿だった。

それでもまだ攻撃の手を緩めようとしない。追い続ける雨から逃げるため雪は風呂場へ駆け込んで鍵をかけた。

勝敗は明らかだった。

雨はおおかみの身体から人間の身体へと姿を変える。花さんが雨の名を恐る恐るつぶやいた。





獣の猛りは雨の中で暫しの間燻っていた。





雨は話終えるとその後ずっと黙ったままで、日が橙色に染まり始めた頃ようやく動き家へと帰って行った。

僕はそれを見送った後戻ってきたじいちゃんと一緒に家に戻る。

人間と獣の姿を持つおおかみこども。

雨は獣を選び、雪は人間を選んだ。

僕は獣の方がいいと思った。4つ足で駆ける山は綺麗で毎日その様子を変え飽きることはない。

人間はどうなんだろう。何かいいところはあるのだろうか。

首を捻り考えたけど、僕は人間を知らなかった。

だから僕は人間を選ばないのかな。

確かめるために僕は初めて人里に下りる決意をした。










次の日。雨はまだ俯いていて、胸に抱える謎を痛がっているようだった

でも昨日のように大きな木の下に留まる事はなかった。じいちゃんと一緒に山へ向かう。

僕は二人が行ってしまったのを確認してから、一度家に戻る。雨から貰った服を取りに行くためだ。

大きな木と家は近かったからそれほど時間はかからなかった。人間の姿になって服を着る。

そして雨がここまで来た道を辿り人里へと向かった。





どれほど歩いただろう。道は少しずつ広がり、木々の匂いがほんの少しだけ薄まってきた。

雨はいつもこの道を、毎日毎日辿ってくる。僕には少し疲れてしまう程の長さだった。

ようやく目の端に人間の家の端が見えた。人間に見つからないように隠れながら様子を窺う。

人間の住む家は僕の家より何倍も、何十倍も大きかった。

僕の家は木の根が土を押しのけた間。そのほんの少しの隙間を雨の水とじいちゃんが掘っただけの穴だから、あんまり大きくなかった。

スンスン、と鼻を鳴らす。知った匂いだ。

匂いに誘われるようにふらふらと家の前を歩く。

家の入口まで来たところで目が人間の姿を映す。しまった、と思ったときにはもう遅くて、人間に見つかってしまった。





「こんにちは…あれ、どこの子かな?この辺りでは見かけいないけど。」





花さんだった。

汗が伝う額を手で拭い、屈んでいた体勢から立ち上がる。

土を触っていた手で拭ったものだから額に土が付いてしまっている。

僕はなにを言ったらいいかわからず、あ、とかう、とかしか口から出なかった。

花さんが近寄ってくる。僕の足は木みたいに硬くなってしまって動かなかった。










「こんな山の方まで、一人で来たの?

…あ」





畑仕事の最中、花は家の前で立ちすくんでいる5歳くらいの子供を見つけた。

どこかの農家の子だろうか。でも見たことがない。親戚が来ている家でもあったのか。

花は子供に向って挨拶をしながら汗が流れる額を手で拭い、立ちあがる。

この頃、センターの仕事が忙しくご近所付き合いができていなかったため、そういった情報を聞けてなかったのかもしれない。

花は「きっとそうだ」と決めると、言葉をうまく発せられず狼狽えている『どこかの農家の親戚の子供』の元へと歩いて向かった。

農繁期の今、人手は足りず子供一人の様子を見るのも片手間にしかできない。

この子は親や親戚の目が届かないところでふらふらと歩いてしまい、こんな山の方まで迷子で来てしまったのだろう。

優しく笑いかけながら『迷子、だろう子供』に話かけ、近くまで寄った。

その途中、花は気づいた。その子供が着ている服が、雪と雨が昔…同じ年頃に着ていた服によく似ているのだ。

完全に固まってしまった子供の首元をそっと覗く。少しよれてしまっている首襟には、青い刺繍糸で縫われた「A」の文字。

雨の、A。

花は確信する。このよれ具合。雪の物と間違えないようにと、雨の頭文字を刺繍した首襟。この服は雨が子供のころ着ていた服だ。

何故この服をこの子供が?疑問が浮かんだ。

その時、一際強い風が二人の間に舞い込んだ。思わず目を瞑ってしまう程の強い風だった。

花が次に目を開け子供を見た時、薄茶色の三角に尖ったものが頭の上で揺れているのを見つけた。

鼻づらも、長くなっている。

人間の顔から獣の顔に近づいた子供を見て花は驚いた。

―――世界は、私の知らない事柄で満ちている。

いつか思った言葉を花はもう一度頭の中に浮かべた。





子供が先日、口の周りを桃の果汁でべとべとにしていた『きつねこども』だと知るほんの数十分前の事だった。