がたんごとんと揺れるバスの一番後ろの座席で、ぎゅっと手を握り締めていた。










06










初めて乗る『バス』という乗り物は道を、僕やじいちゃんが走るよりも早く下って行った。

窓に映る景色は緑がだんだんと無くなっていき、代わりに石でできた家や、ガラスをいっぱいはめた木よりも大きな建物で溢れていった。

花さんから教えてもらった話では『都会』という場所は木の何十倍も大きい『ビル』に囲まれていると言った。

バスが停まる。僕は花さんから貰った日よけの麦藁帽子を深く被り直す。

「お母さんはいないのかい?」と運転手は不思議そうに一人で山から乗車した僕を呼び止めた。



おつかいにいくんです。何度も頭の中で繰り返し練習した台詞を俯きながら言って、下車した。

訝しげに僕の様子を見ていたおじさんの目はなんだか居心地が悪かった。

バスを降りると熱を含んだ風が、麦藁帽子に飾られた紺色のリボンを揺らす。クロアゲハのように羽ばたいた。

すんすんと匂いを嗅ぐ。花さんや雨に付いていた雪さんの匂いを探る。

色んな匂いが混ざる中、微かにおおかみの匂いがした。

僕はもう一度麦藁帽子をぎゅっと被り直して匂いがする方向へと足を進めた。





街には色々なものがあふれていた。

道には木の代わりに大きな石が立っていた。先端には紐がついていて、別の石へと繋がっている。それは点々と存在した。

大きな一枚ガラスが取り付けられた家の中には、花のように色とりどりな甘い匂いのものが並んでいた。花さんの家で食べた『お菓子』というものだろう。

あちこちに目を奪われながら僕は匂いを辿った。

どれくらい歩いたのだろうか。夏の日差しがどんどん強くなり高く昇っていた。

ようやく匂いが強く感じられる場所にたどり着いた。木でできた茶色い、長い建物だ。

雨や雪さんと同じ年くらいの子供がたくさんいた。笑い声や楽しそうな高い声が聞こえる。

ここが『学校』なのだろうか。

建物の前に開けた土地がある。

そこでは赤や白の帽子を被った子供が互いに追いかけ合ったり、紐を回して飛んでいた。とても楽しそうだ。

もっと近くで見てみたい。どこかに入れる場所はないかと学校を囲んでいる緑色の網の隙間を探した。

僕が通れるくらいの穴が網に開いているのを見つけた。帽子が引っかからないように潜り通り抜ける。

抜けた先は茂みの中で、近くに建物に入る扉が開いていた。覗き見ても長い廊下には誰もいなかった。

廊下を進む。両側にある扉の中には鍵がかかっていた。引いても開かなかった。

大人の人間の声がぱらぱらと聞こえる。

人間より遠くが聞ける耳が、別の部屋で何かを読んでいるのをとらえた。

淡々とした音程で言葉が紡がれているのがわかった。

何を言っているのかまではわからなかった。よく聞こうと耳を澄ませたその時、





キーンコーンカーンコーン…





突然大きな音が響き、たくさんの部屋からガタガタと物が動く音が聞こえた。

僕はピクリと体を揺らして驚いて身構える。耳がぴょこんと出て帽子の中でもぞもぞと動くのを感じた。

そのまま暫く様子を見ていると二度目の音が響く。先にある扉が次々と開く。荷物を背負った子供が次々と出てきた。

ばらばらと動くたくさんの子供を見て、近くにあった花瓶を乗せた棚に隠れた。

きゃあきゃあと戯れながら僕と反対方向へと向かっていく子供の数は、初めてみる人間の数だ。

こんなにもたくさんいるとは思わなくて、少し怖くなった。

階段を下ってくる子供たちもいる。その中に知っている顏を見つけた。

雪さんだ。青い服に赤い荷物を背負って別の子供と歩いている。

知った顏と山の匂いを感じ安心した僕は、棚の影から出て雪さんの方へ向かう。雪さんの目が僕をとらえた。驚き、目が開かれる。





「ゆきさ…」

「……っ

こないで…!」





押し殺した声に僕の足が止まった。

叫ぶのを抑えた、唸り声のような恐怖や怒りを感じ僕の動きを止めたのだ。

山の動物たちは敵意や、「来るな」と威嚇する相手には近づかない。危険だからだ。

雪さんはひと睨みすると身を翻して駆け足でその場を去って行ってしまった。隣にいた子供はその後を追う。

ぽつんとその場に佇んだ僕を他の子供たちが囲んだ。





「一年生?」

「かわいい帽子ー」

「誰かの弟?」





矢継ぎ早に出される質問や声に僕は脅えた。

知らない土地に知らない人間。それらに囲まれて急にどうしたらいいかわからなくなった。

誰かが大人の人間を連れてきたのが子供たちの向こうに見えた。

僕はたまらなくなり、その場から逃げ出した。大人の人間が大声で呼び止めるのが聞こえた。





抜け穴を通り街に駆け出て暫くしたところで足を止める。

力いっぱい走ったから息が切れていた。帽子は飛ばされないようにしっかりと握っていたから、ぴょこんと飛び出た耳は誰にも見られていないはずだ。

手にじっとりと汗をかいていた。胸がぎゅうぎゅうと締め付けられて、足が震えた。

人間が怖い。反射的にそう感じた。きっとこれが本能というものだ。

狐が黒い筒を持った人間に追いかけられ殺されそうになる物語を花さんの家でみた。

僕もあんな風に追いかけられ殺されそうになるのだろうか。

雨や花さん、雪さんが怖いと思わなかったのは、きっとおおかみの匂いがしていたからだろう。

道の隅でうずくまり震える体を抱えた。





「きみ、どうかしたの?」

「…っ!?」





肩にぽん、と手を置かれた。振り返ると青い服と青い帽子を被った人間がいた。

腰には黒い筒がある。

逃げ出したい衝動に駆られたけど足がすくんで動けなかった。口も思うように動かなかった。





「お母さんは近くにいないのかな?」

「…」

「迷子か…僕、名前は?」

「…」

「うーん…身元がわかるような荷物も持っていなさそうだし…

僕、お巡りさんと一緒にお母さんを交番で待とうか。おいで。」





僕がなにも言えずにいると人間は何やら勝手に決めてしまい、僕の腕をつかんだ。

何処かに連れて行かれる。どこに?

ジワリと涙が溢れそうになり、嫌だと掴まれた腕に力を込めた。

人間の手は力強く振りきれない。なにをされるのだろうか

不安感で胸が押し潰されそうになった。目の前が歪んで涙が零れた。





「あの、すみません」





人間の後ろから声が掛けられる。男の子だ。

短く髪を切り、右耳には鋭い物で切ったような二本の傷跡があった。





「俺、その子知ってるんで家まで送っていきます。」

「そうなのかい?」





青い服を着た人間は僕の顔を覗き込み、尋ねる。

その向こうで男の子がこちらを見てうなずいた。

その顏は先ほど学校で見た顏だ。雪さんの後ろに居た。

僕はコクリと人間に向ってうなずくと、人間は手を離し「じゃあお願いするよ」と言って去って行った。





「お前、雪の知り合いか?」

「…」





姿が見えなくなってから男の子は僕に聞いた。

僕は迷った。僕がきつねこどもで、人間の世界を知るために山を下りてきた。なんて言えない。

きつねこどもやおおかみこどものことは秘密にしなければいけない、と花さんが言っていた。

口籠って迷い、じっと待っている男の子にポツリと呟いた。





「あめの、」

「雨…?雪の弟が確か雨って名前だったな。

なんで学校に来てたんだ?雪の弟は学校に来てないって聞いてるけど。」

「あめの、きらいながっこう。ゆきさんはがっこうがすき。

どんなとこか、しりたかった。」





でもあんなに怖い場所だとは思わなかった、と思い出してまたじわりと涙がこみ上げる。

ぐずりと鼻をすすった僕の頭を帽子ごと男の子は撫ぜる。ぐわんと頭が揺れた。





「家は雪の家の近くか?」





こくりと首を縦に振る。

でも一人では帰れそうになかった。雪さんの匂いは街に混ざってしまって辿れなかったし、辿れたとしてもまたバスに一人で揺られるのは怖かった。

歩いて帰るというという選択もできなくはなかった。山の道で鍛えた足には自信がある。

だけどじいちゃんが帰ってくるまでに大きな木の下に戻れるのは無理だ。じいちゃんに心配はかけたくなかった。

それを読み取ってくれたのか、男の子は僕に手を差し出し「送ってってやるよ」といってくれた。

人間だけど、おおかみの匂いもしないけど、このひとは怖くなかった。










とてとてと引いた手のあとに付いてくる子供は、泣き止み落ち着いてはいたが機嫌が良いワケではなかった。

互いに話すこともなく、麦藁帽子の頂点をちらりと見た。

雪の家の端が見えると子供はぱっと顏をあげ、ようやく安心したように表情を緩めた。





「ここからなら、ひとりでへいき」

「そうか。」

「ありがと、ございます。えっと…おなまえ、」

「名前?俺は藤井草平。」

「そうへい、さん。ぼくは、っていいます。

ばいばい」





繋いでいた手を離すと子供はぺたんぺたんとサンダルを鳴らしながら坂道を駆けてゆく。

あの様子ならちゃんと家に行けるだろう。こけないようにだけは見守った。










雪が逃げ出すようにこの子供を避けたのは、おそらく自分の傷の秘密と関係があるのだ。耳をそわりと触る。


痛みはしない時々痒くなるかさぶたの秘密は、雪を守るため一部は口にしたが全部を真実だと誰かに伝える気はなかった。

この秘密は、いつか、ないかもしれないが。雪が自ら明かすまで胸の内に留めるのだ。

坂を上がり切り、振り返りばいばいと手を振る子供。





その服の裾からちょろんと飛び出した尻尾を見て、草平は改めて誰に言うでもなく誓った。















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野生の動物は例外はあるでしょうが、人間に対して警戒や恐怖心を持っていると思うのです。
だから大勢の人間に囲まれた状況は、今まで野生の中で育ったきつねこどもには怯えの対象になったのでしょう。
バスに乗っているときも野生にはない物の中にいる恐怖心はありましたが、街や人間の世界への興味がそれを上回ってわからなかったのです。

草平君は雪がおおかみこどもだということは怪我をした時点で知っています。
作中で「判っていた、ずっと」という表記があったので、
最初から「おおかみ」とはっきりと理解していなかったにしろ、雪が人外であることには気づいていたと思います。
その事実が周囲に知られてしまえば雪が学校にいられなくなることや、里から出て行くこともわかっていたとわかっていたでしょう。
自分のせいで雪を追い出すようなことはしたくない。そんな気持ちで黙っていたのだと思います。
恋心に発展していくのは、またしばらく後の事じやないかなぁと。