みずみずしいキュウリを渡して花さんは言った。
07
街におりてから数日。人里は恐ろしく感じもう行く気にはならなかったが、花さんの手伝いは変わらず続けた。
それは雨がくれた白い服が証拠となった。畑仕事の手伝いですっかり汚してしまい、茶色に変わっていた。
洗っても落ちそうにない汚れを僕は全然気にかけなかった。土の匂いは好きだ。
でも、土色に染まった僕を見て花さんはくすり、と笑うと家からあるものを持ってきてくれた。
菜の花色の袖の長い服。服の左胸の部分には雲のような白い花の刺繍が2つ縫われていた。
「雨の服はすっかり縒れてしまっていたから、新しいのを仕立ててみたの。
気に入ってもらえるといいんだけど。」
雨が幼い時に着ていたという服は使い古されていて、襟元はくちゃくちゃで裾からは解れた糸が垂れていた。
僕はこの服が嫌いじゃなかった。雨の匂いが染み込んでいて安心したから。
でも花さんが新しく作ってくれた服は太陽の光を受けて明るく輝き、僕の目にはとても魅力的に写った。
僕は急いで汚れてしまった服を脱ぎ捨てるとそのまま着ようとする。しかし花さんに止められた。身体が汚れたままだった。
玄関先でバケツ一杯の水を頭から浴び泥を落した後、ようやく袖に腕を通す事ができた。
元から僕のものだったかのようにぴったりと合った。くるりと一回転して見せると花さんが笑う。
僕はこの服を気に入った。
「はなさん、ありがとう!」
「ふふ、どういたしまして。気に入ってもらえてよかった。
とても似合っているよ」
早く雨にもこの服を見てもらいたい。「似合っている」って言ってくれるかな。
人間たちは怖いと思ったけれど、雨と同じ姿を持てる事は嫌ではなくその姿を褒めてもらう事は好きだ。
雨と同じであることがなにより嬉しい。
「でも、少し大きめに作ったつもりだったんだけど目算を誤ったかしら?」
花さんが僕の前でかがむ。僕の頭のてっぺんに手を置き僕の大きさを測っているようだ。
大人しく待っていると「やっぱり」と呟きにこりと微笑む。
「くん、身長が大きくなってる。ひとつ年をとったくらい。
きつねこどもは雪や雨とは成長速度が違うのかな。」
「せいちょー、そくど?」
「大きくなる早さのこと。
きっと直ぐに雨と同じくらいになるよ。」
雨と同じ。
その言葉にぱぁ、と表情が明るくなったのが分かった。雨と一緒が一つ増えるのが嬉しくてたまらなかった。
花の家の大広間で通常より多く出された宿題に雪は向かっていた。
今は昼時で学校にいるべき時間のはずなのだか、暑さのためで全学年休校。つまり夏休みが始まったのだ。
数字を問題集に書き込み視線を上げる。きゃあきゃあとはしゃぐ声はこの家にはここ数年響かなかったものだ。
ほとんど毎日のように訪ねてくるこどもに雪はいい気持ちを持っていなかった。
こどもが嫌いな訳でもない。訪れる子供が悪さをし被害を受けたわけでもない。
こどもが自分たちと同じ秘密を持っていることが不安なのだ。
正確には『それを重大な秘密だと感じていない様子』が不安なのだ。
人前で姿を変えることを『びっくりするから駄目』くらいにしか捉えていない。
人間は自分と違うものを嫌う。雪がそれを知ったのは小学校に入学してすぐのことだ。
特に自分たちのような人ではない血が流れている者は。
大人しく、おしとやかに。初めてできた同じ年の友達に馴染みたかった、雪が身につけた自衛手段だ。
花からもらったおまじないと、気をつけた人と馴染むための行動のお陰で秘密は守られていた。
しかし先日。雪の秘密がバレてしまうかもしれなかった事件が起きた。
執拗に自分を気にかけ追いかけた転校生を、秘密の力のせいで傷つけてしまった。
人を傷つけてしまった罪悪感に、秘密がバレてしまったらこの場所にはいられなくなってしまう恐怖。
自分のせいで家族に迷惑を掛けてしまうことに、崖の上に立たされたような絶望感に襲われ大声で泣いた。
その後も人を傷つけた自分を見る同級の目に耐えられず学校にいけない日々が続いたが、怪我をさせてしまった相手の励ましによって再び通学することができた。
そんな出来事があったため雪は秘密に関して過敏になっていた。こどもと初めて会ったときも、秘密が漏れる心配が増えたことに苛立ちを隠せず花にぶつけてしまった。
そんなことを知らずにこどもは、なんと自分の学校に忍び込んだのだ。
もしもそこで耳が見られたら。尻尾が飛び出したら。姿を変えてしまったら。
こどもの姿を見た瞬間に不安が体を硬直させた。
さらにこどもは自分と関わりがあることを雪の名を呼び駆け寄ることで周囲に知らせようとしたのだ。
こどもにそのつもりはなかっただろうが、それではもしもの事があったときに雪の秘密も明るみに出るのではという危険を産んだ。
血が熱くなる感覚に唸るような拒絶の言葉を漏らした。こどもは動きを止め雪を見つめた。
あれ以来、は雪に近づこうとしなかった。すれ違うことがあってもそそくさと視線を交わさず避けるように立ち去る。
大人気ないことをした自覚はある。聞けば生まれてまだ一年少しと言う。何も知らず恐れを抱かず自由に行動しても仕方がない。
幼くまだ何も知らないのであれば雪が教えればいい、と言った花の言葉も一理ある。
教えようとしても近づくことも躊躇するようにしてしまった相手にどうしよう、と頭を抱える。
「あの…」
戸惑った声で呼びかけられる。声の元を見れば縁側にがいた。
初めて見る黄色い服を身に纏い、風で飛ばされないようにつけられたゴムで麦藁帽子を首に引っ掛けている。
目を合わせれば気まずい雰囲気が流れた。破ったのはだ。
「あの、はなさんがゆきさんにあげてって…」
差し出されたのは一本の胡瓜。水々しく膨よかな立派なものだ。
受け取ると小さな手がぴゅっ、と勢いよく引っ込んでしまう。
最初はなんだろうと思った雪だが直ぐに花の意図を読みとる。
「が採ったの?」
「……うん。」
こくりと地面を見たまま頷いた。
雪は再び胡瓜に目をやる。そしてそれに歯を立てかぶりついた。
ぱきん、と飛沫を散らせ胡瓜は音を立てて雪に飲み込まれて行く。は驚き目を丸くしながらその様子を見た。
「ありがとう、とても美味しい。」
礼を言われたは表情を明るくした。するとそれまでの気まずさはどこへ行ったやら。
自分が他のものよりも美味しそうなものを、どのように選び採ったのかを拙い言葉遣いで一生懸命につたえようとした。
初めて獲った獲物を見せるおおかみこどものように。
雪は一つ一つ頷きながらきつねこどもの話を聞いた。
「これを雪に渡してあげて。」
言われて躊躇うこどもの背中を花は押して見送る。
数分後に縁側の方から聞こえてきたこどもの声に花は満足そうに笑った。
喧嘩をしていたわけではないのだが、が雪に『狩り』を褒めてもらうことで花の目論見通り二人は仲直りができたのだった。