滝のように降る雫は幾筋の川を作り、地面を抉り全てを攫うように流れていく。










09










身体にまとわりつく水気を身を震わせ飛ばす。

湿気で乾く事は期待できないが幾分かましになった。身体が濡れていると動きが鈍るし、何より気分が悪い。

からりと晴れた日差しの中なら濡れていた方が涼しくていいのに。

いつもの杉の木の前。じいちゃんと雨を待ちながら空を見上げた。

雨の季節は過ぎたというのに、この数日太陽は灰色雲に隠れまともに顔を出そうとはしなかった。

尻尾の毛づくろいでもしようか。木々の隙間から空を見上げていた頭を地面に向けると、ネズミの姿を見つける。

小さな川となった雨の筋を避けながら安全な地を求めるそれを僕は追った。

真っ黒に染まった足先でウサギが野を駆けるように木の根の上を、岩の上を跳ねた。狙いを定め口を開く。

ぱくり、と閉じればその中にはネズミが捕えられていた。





ウサギに蹴られ狩りに失敗し泣いていたのはもう昔の事だ。あれから季節は一巡りし、僕は大人になった。

じいちゃんのように四肢や鼻面はすらりと伸び、身体も一回り大きくなった。出会ったばかりの雨のおおかみの姿と同じくらいだ。

あれほどがっしりとした身体付きはしていないけど。身軽であるのと引き換えにひょろりと細く頼りない身体に眉を寄せる。

人間の姿も成長した。こっちはようやく雨の身長に追いついた。

いや、僕の方が大人になる速度が早いから、身長はすこし追い越してしまっている。今は雪さんと同じ年の子との方が近い。

ほんの少しの違いなのに、雨より目線が高いなんて雨と出会ってから初めてのことで、戸惑いを感じていた。

雨は僕と一緒にいるときにあまり人間の姿にならなくなっていたから、それを感じるのもたまにのことだったけれど。





雨が人間の姿でいる時間が少なくなったのは、すっかり山の一員となっていたからだろう。山で過ごす時はおおかみとして生活し、僕より山を知り山のことを考えていた。

頻繁に山に入るようになったのも、きっとそれが理由だ。

この所続く豪雨の影響で川は増水し、土砂崩れがおきていた。僕が生まれて初めて経験する大きな災害は山を無惨な姿に変えた。

動物たちの住処は土砂で沈み、その結果命を落とすものも多かった。崩れ倒れた木々の間に小さな鳥のヒナたちが冷たくなっているのも幾度もみた。

雨はその一つ一つを手に取り、土に埋めた。そのまま放っておくのが山の姿として正しいのだけど、痛々しい光景を癒すように続ける雨を僕も手伝っていた。

今日もきっと埋葬を続けるんだろう。遺骸を見つめる雨の目は僕も悲しくなるから、できるだけ少ないことを祈った。





いつも杉の木の前までは雨は人間の姿でやってくる。豪雨の中、それはとても大変なことだった。

普段より遅れ姿を現したのが証拠だ。雨はびしょびしょに濡れていて足も泥で汚れていた。

僕は慌てて擦り寄る。

思ったとおり雨の身体は氷のように冷えていた。肌を伝う雫を舐め取りながら舌先で温もりを与える。

つるつるとした感触からふわふわの毛皮に変わると、雨はもう大丈夫だと言い道を駆け上がった。

天から零れる雫は量と勢いを増して降り注いでいた。















三匹で見回る山は以前の姿からは想像もつかない程変わり果てていた。

茶色い濁流が轟々と恐ろしい鳴き声を上げていた。巨大な生き物のようだった。

川の近くは滑って危ない。先頭を進むじいちゃんは足を山腹に向けた。

そのあとに僕が続いて、最後に雨。僕を置いていかないようにと三匹で行動し始めたばかりの頃に決まった並びだ。

今はそんな心配はいらないのに、この順番が崩れることはなかった。

幾つもの水溜りができている獣道を歩く。枝葉に遮られているけど、落ちてくる水の量は増えている気がした。

みしり、と嫌な音がする。

山肌を見上げると若木が傾き、倒れてくるのが見えた。

水分を吸った地面は柔らかく解れ根を掴み取っていられなかったのだ。僕に小振りだが、それでも大きな幹が降ってきた。

ばしゃり、と泥水が跳ねる。

何が何だかわからないうちにぐちゃぐちゃの泥の上に倒れた。

一本の木が周りを巻き込み、土砂崩れが起きる。

地面を揺らす轟音の中に、土の中に。じいちゃんが、見えた。





「じいちゃん!!」





蛇のように足もなく走る茶色い巨躯を追おうとしたけど、首根っこを噛まれ引きとめられた。

勢いで力加減ができなかったんだろう。雨の犬歯が毛皮に深く喰い込み痛かったけど、気にしていられなかった。

音が静まり、流れた地面が止まる。音の割に小さく収まった土砂崩れは、じいちゃんを十数メートル下に連れ去った。

もう大丈夫だと判断して雨は口を離す。僕はじいちゃんに駆け寄る。

足場にした場所からカラカラと小石が落ちた。





「じいちゃん…」





泥にまみれ、ぐったりと横たわる。鼻先で顔を何度か押し上げるとゆっくり目を開いた。

いつもの厳格で鋭かった目が精一杯力を振り絞ってようやく瞼を持ち上げれたというような、弱々しいものだった。





「じいちゃん、ここまだ危ない。早く離れようよ。

だから起きて。ねえ、じいちゃん。」





じいちゃんの上に降りかかっている小石や枝を鼻で払いのけ話しかける。真っ直ぐ前を見つめていた目を、僕にちらりと向けてからじいちゃんは足に力をいれた。

よろりと立ち上がる。四本の足が地面についた、と思ったとき左後ろ足がカクンと折れた。

足を痛めてしまったのだ。ざあ、と血の気が引く。




足に怪我を負う。

それは僕たち、野生の動物には『死』と同じ意味を持っていた。





、先生は僕が抱えていく。はどこか安全な場所を見つけて。」

「…うん」





人間の姿に戻った雨に言われ、ようやく僕は動けるようになる。全身の力が抜けて座り込みそうになるのを必死で堪えた。

しっかりした、歩ける道を選んで、雨や寒さをしのげる場所を探さなきゃ。

雨はまだ止みそうになかった。















ようやく岩でできた洞を見つけ、じいちゃんをその奥に寝かせる。全身が痛むのか何も言わず目を瞑っていた。

僕と雨は洞の入り口で座って黙っていた。

太陽がでていないからはっきりとはわからないけど、雨は家に戻らないといけない時間だろう。雨が帰らなければきっと花さんは心配して探しに出る。

いつもならそう思って雨に帰るよう言うだろう。雨もそれをわかっているから腰を上げた。

でも今は、僕は雨に帰って欲しくなかった。





、」

「雨、行かないで。

おいて行かないで。」

「…」

「ひとりにしないで。

僕怖いよ。こわいよ、あめ」





こんなことを言っても雨を困らせるだけだとわかっていたけど、口から出る言葉を抑えられなかった。

僕をかばって怪我をしたじいちゃん。最近、年のせいで弱ってきていたのは知っていた。

この怪我が決定打になるだろう。じいちゃんの命は、もう長くない。

ずっと面倒を見てくれた、支えだったじいちゃんのその時を独りで迎えるなんてできない。

僕を庇い怪我をさせてしまった罪悪感と、じいちゃんを亡くしてしまう。独りになる恐怖で僕の頭はぐちゃぐちゃで、姿も入り混じってしまう。

獣の耳と尾を残し、人間の姿となった手のひらで顔を覆った。涙と嗚咽がぼろぼろ溢れた。

雨の五本の指が髪を梳き撫でた。指は僕の肩を引き寄せ抱きしめ、背中をさする。

だいじょうぶ、だいじょうぶ。そう告げるように何度も撫でた。





、ごめん。今は一緒にいてあげられない。

でも独りにはしない。僕はの傍にいる。

僕は、僕が先生の代わりになる。

だから少しここで待っていて。」





僕は声がうまくだせず、代わりに何度も頷く。

雨は一度力強くぎゅう、と抱きしめてくれた。そしておおかみの姿になり洞をあとにした。

ざあざあと降り続く雫の中消えていく雨の姿を僕は見送った。










それから雨は、姿を見せなくなった。