独りにしない、傍にいる。雨の約束が僕に残された希望だった。
10
あれから数日経った。雲間から時々太陽が覗いたけど、天候は相変わらず悪いままだった。
その少しの隙をついて僕は狩りに出掛け、野ネズミや木の実を採った。
雨は一度も戻ってこなかった。
じいちゃんも日に日に弱り、食べ物を口にすることもできなくなった。
僕は何でもいいから口にしてもらおうとじいちゃんの元にご飯を運んだ。じいちゃんは匂いを嗅いで、表面についた雫をペロリと舐めると見向きもしなくなる。
あまりにも静かでいるものだから僕は何度も息を確かめる。お腹が浅く上下しているのを見て、一度は安心するのだけれど直ぐに同じことを繰り返した。
不安と恐怖に押しつぶされそうになりながら、雨を待ち続けた。僕がここで負けてしまっては雨が戻ってこないような気がしたからだった。
その日の朝は久々に太陽の光を浴びて目覚めた。蒸し暑い。
空気に大量の湿気が含まれているから昼からはここ一番荒れた天気になるだろう。むず痒くなった髭を前足で拭った。
ご飯を採りにいってくるとじいちゃんに告げると、ここにいろと言われた。理由を尋ねても黙ったまま眠り込んでしまう。
蓄えはあって今すぐ狩りに行かないと飢えてしまう訳でもなかったし、まあいいか。と僕もじいちゃんの隣で横になった。
ぽっ、ぽっ。と葉が鳴り始めると、すぐに山全体が鳴き始めた。風の音が木々を抜けて嵐になる。
クマの親子が洞の前を通るのを見送って毛づくろいを再開する。予想したとおり、天気は荒れた。
洞の目の前の道に水溜りが幾つかできて地面がぬかるんできた頃、ばしゃばしゃと水を跳ねる音が響いた。
何かがこちらに向かってきている。耳をそばだてた。
水分を吸った青い艶やかな毛並みが霞ががかった景色に浮かんだ。たくましい四肢が泥を跳ねる。
「雨!」
おおかみの雨の姿を見つけ僕は跳ね起きて駆け寄る。すこし息を切らせた雨の鼻先にすり寄った。
来てくれた。雨が来てくれた。
そこら中を走りたいくらい嬉しくなった。
「、先生は?」
「じいちゃんは奥にいるよ。」
おおかみにはちょっと小さい洞に雨が入っていく。僕は雨の影から中の様子を見つめた。
じいちゃんは雨の気配を感じてか、ゆっくりと瞼を押し上げた。首が動いたけど持ち上げるまではいかず、頬で土を擦っただけだった。
視線を雨に向ける。雨の身体からぽたりぽたりと雫が落ちる音が響く中、二匹は見つめあっていた。
そしてじいちゃんがポツリと、言葉をこぼした。
―――頼む
何を、とは言わなかったが雨はわかったと言うように重々しく頷いた。
じいちゃんは雨の身体の向こうに見えた僕に視線を向けた。優しい、今まで見たことがないような瞳だった。
いや、あったかもしれない。初めて夕焼けをみた日。星空に手を伸ばした日。
じいちゃんはいつも僕を見守っていてくれた。
「じいちゃん、ありがとう。」
育ててくれて、見守っていてくれて。僕は大きくなったよ。だから大丈夫、ありがとう。
笑って見せるとじいちゃんは目を細め、ゆっくりと長い眠りについた。
しっかりとした地盤の土を深く掘った穴にじいちゃんを埋めた。白い花を供える。
じいちゃんが二度と目を覚まさないのにこんなにも穏やかでいられることに、自分でもびっくりしている。
きっと雨がいてくれたからだろう。僕は独りではないのだと、同じ秘密を持った仲間がいるんだと安心できた。
仲間、というよりもっと近しい。家族、というのも少し違うような気がする。首を捻るが僕の知っている言葉に当てはまるものは見当たらなかった。
「。」
「なに、」
雨。と続けようとしたときズズズ、と、どこか近くで山が鳴いた。
土砂が崩れたんだろう。音は大きくも長くもないから小さいものだろう。
ピン、と僕も雨も身体が張り詰めたが警戒はすぐ解いた。
その時僕の耳が慣れた声を拾った。豪雨にかき消されそうなほど小さく細い声が慣れた音を紡いだ。
あめ、と。
「花さん…?」
雨が僕を呼ぶ声がしたけど僕の足は花さんの方へと向かった。先程崩れた土砂の先へと。
墓穴をほっている間にすっかり暗くなってしまった獣道を耳と鼻を頼りに進む。
色んな動物が使うからだろう。草がない踏み均された道に出た。
ごろりと山にはない明るい黄色の何かが転がっている。花さんが仰向けで倒れていた。
追いついた雨が息を切らせて立ち止まった僕を追い越し、人間の姿で静かに花さんに近寄った。
さわり、と花さんに触れて傷の程度を確認する。僕も人間の姿になり、後ろからその様子を伺った。
「雨、花さん大丈夫…?」
「…あちこち擦り傷があるけど、気を失ってるだけだ。
、母さんを里に連れて行くから、また道を見つけて。」
「うん、わかった。」
きつねの姿に戻り振り返りながら先導し、花さんを抱える雨を誘導した。
一番近い人の手が入っている安全な場所は広い駐車場だった。まだ雲はうっすら残っていたけど、晴れた空は白んできていた。
駐車場の目の前に立つ轟々と水を落とす崖の上で待っているように言われた。人一人を抱えているのに雨は何でもないように降りていった。
水溜りがない所に花さんを横たえると、雨は立ち去ろうとする。こんな所に一人眠る花さんを置いていっては、雨を止めようと足を一歩踏み出したとき花さんは身じろぎ起きた。
なにも言わず立ち去ろうとする雨を見つけその背に声をかけた。雨はおおかみの姿で振り向く。
花さんは震えた声で話しかけた。雨は気づいたようにハッとし、身体ごと振り返って何かを言いたそうに口を開く。
けれど、その口が意味ある音を告げることはなかった。身体を撫ぜる風が止むと雨は素早くコンクリートの地面を蹴り、柵を飛び越えた。
花さんが叫ぶ。雨は止まらない。
岩場を時折足を滑らせながらも、跳ね走って登った。花さんの手のひらが空をつかんだ。
夕日や星のように、決して届かない存在を求めた小さい頃の僕と重なった。
木々に雨の姿が消える。がくりと花さんは力なくうな垂れた。
枝葉を散らし崖の頂上に雨が着いた。一度花さんのいる駐車場を見下ろすと、胸腔一杯に朝霧を含んだひんやりとした空気を吸い込む。
そして天に放った。鼓膜を震わせ空気に響く咆哮は、重なった山から朝日を呼び出した。
雨の青みがかった体毛を照らし、きらきらと輝いた。夜空に瞬く星々を頭に浮かばせた。
全身をたたく遠吠えを聞いて、朝日が雨を包む光景を見て、花さんの瞳に力が戻ったようだった。
「元気で…しっかり生きて!!!」
花さんが叫んだ。今度はいつも見せてくれた笑顔で。
二人は少しの間見つめ合う。終わらせたのは雨で、山の奥へ向け駆ける。僕もあとに続いた。
人の手が入らないくらい奥深い場所に到着すると雨が立ち止まった。
「。」
じいちゃんを埋めた、あの時の続きだ。僕もあの時を繰り返すようになあに、と返した。
「僕はおおかみとして生きる。そして先生の跡を継いで山の主になる。
は、どうしたい?」
「どう…?」
「僕はおおかみと人間、どちらで生きるか選んだ。
もきつねか人間か選べるんだ。」
「選ぶ…」
「今すぐじゃなくていい。
僕は先生に山と一緒にのことも頼まれたんだ。がらしく生きるのを手伝う責任がある。
だからいつか、が生きる道を選んで。」
僕が僕らしく生きる道。きつねと人間、どちらが僕らしく生きる道なんだろうと考えた。
答えはすぐ出た。最初から決まっていたのかもしれない。
「雨、僕は…」
からりと干上がりそうなくらい晴れた空の下、木の葉が張り付いた雨戸を取り外す。開けたままだった玄関はびしょ濡れで、あとから拭き掃除をしなければならない。
あの後まさかと思ったが学校に雪を迎えにいくと、草平と二人カーテンに包まり教室で眠っていた。
二人が残っていたことを見落としてしまったことで教師たちから頭を下げられたが、雨の事で頭がいっぱいになって迎えに行けなかった自分にも非があると気にしなかった。
草平の母親も一緒にいたのだが、以前のように激しく怒る事なく静かに草平を連れ帰った事が気にかかった。
雨戸をすべて外し終え、納屋に片付けるだけとなる。花は一息ついた。
がさがさと近くの茂みが揺れた。目を向けるときつねが一匹、白い花を銜えこちらを見ていた。
鼻面が縮み、人の鼻筋に変わると花を手に持ち直す。あちこちに跳ねた、ふわりと手触りの良さそうな髪が揺れた。
まだ成長途中の少年に姿を変えたに、花は穏やかな気持ちで笑った。
はもじもじと手を揉み、頭の中にあるものを一つ一つ全て伝えられるように言葉を吐き出した。
「花さん。僕ね、きつねの姿で山を駆けるの好きなんだ。きつねの足なら岩場を跳ねるのも簡単だし、木の匂いもたくさんわかる。
人間の姿で畑のお手伝いするのも好き。じゃがいもを手で力一杯引き抜いたり、たくさん人間とお話するのも好き。
でも、雨はおおかみを選んで雪さんは人間を選んだように、僕もどちらか生きる道を選ばなきゃいけない。」
は一度顔を伏せ、迷ったように目を泳がせる。テストの採点を受けている子供のような目だ。
しかし、覚悟を決めたように顏を上げるとはっきりと意思を持った声色で告げた。
「僕は雨が好き。ずっといっしょにいたい。
でも、花さんや雪さん。草平さんとお別れしたくない。
だから、僕はどっちの道も選ぶよ。きつねの姿も、人間の姿も選ぶ。
きつねこどもとして生きるんだ。」
このこどもも自分の世界を見つけたのだ。花は自分の子供のことのように誇らしく感じ、充実した気持ちで笑った。
一年ほど前から山の麓の自然観察センターに一人の少年が訪れるようになった。
中学生ほどの歳の子だが、喋り方は幼子のようにたどたどしかった。しかし山に入れば大人よりも知識が豊富で、すぐに周囲に頼りにされる存在となった。
同じ頃から、山にそれまでいなかった肉食の獣が現れるようになった。見たものの中には、おおかみだと言う者も野良犬だと言う者もいた。
全ての人が口にする共通点は、傍らに一匹の狐が付き歩いているということだ。二匹はつがいのように親しい様子だったという。
猛々しい遠吠えが山々に響く。
彼らは今日は共に山を駆けているのだろうか。花は風に乗って訪れた微かな声に思いを馳せた。
あの二人なら元気に生きているだろう。
彼らはもう、立派なおおかみこどもときつねこどもなのだから。
免許証の前に飾られた白い花が同意するようにうなずき揺れた。